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2014年04月22日

【4月例会報告】博多部を歩こう!

4月例会のご報告です。




博多駅周辺は、福岡市の都心部でありながら、「博多部(はかたぶ)」と呼ばれる歴史のある神社や古い町並みが残るエリアがあります。
福岡県民でもご存じない方が多く、今回の参加者も「はじめて!」という方がほとんど。

博多駅に集合し、最初に向かったのは

【博多千年門】
こちらは、先月の28に完成した博多部の新たなシンボル。

高さ、幅ともに約8メートルの木造瓦ぶきの四脚門で、「商人のまち・博多」の出入り口にかつてあったとされる「辻堂口(つじのどうぐち)門」がモデルになっています。
千年の歴史を持つ博多の、今後千年にわたる繁栄を願って命名された門です。


【承天寺】
宋から帰国した聖一国師(円爾弁円)を開山に迎えて創建したお寺。
聖一国師は仏法の教義以外にも、さまざまな宋の文化を我が国へ伝えたといわれています。
その代表的なものが「うどん」「そば」「饅頭」などの粉食文化。寺内には、饂飩蕎麦発祥之地の碑(うどんそばはっしょうのちのいしぶみ)もあります。

素晴らしい庭は、普段は檀家以外入ることは出来ませんが、入り口から少しだけ覗くことができます。



【妙楽寺】
豊臣秀吉による町づくりの際、焼け石や焼け瓦などを粘土に練りこんで作られたといわれる「博多壁(はかたべい)」があります。この博多壁は、楽水亭と櫛田神社でも見ることができます。
また、この妙楽寺は、名古屋名物で有名な「ういろう」の発祥の地。

その昔、中国から博多の妙楽寺に亡命してきた医者の陳宗敬の一族は「透頂香(とうちんこう)」という万能薬を作っており、これを時の将軍足利義満に献上していました。この「透頂香」は大変苦かったため、口直しに米粉で作った菓子を添えて出していました。その秘伝を受け継いだ小田原外郎家が、「外郎(ういろう)」と称して売り出し、「ういろう」と呼ばれるようになった、ということです。


【東長寺】
弘法大師空海が中国から帰国後、日本で最初に開いたお寺。
五重の塔や木造坐像では日本一大きな「福岡大仏」(残念ながら撮影禁止です)があり、その大仏の台座の下には、地獄から極楽へ至る道に見立てた「胎内めぐり」とも呼ばれる「地獄・極楽めぐり」ができるようになっています。
 



【聖福寺】【幻住庵】【圓覚寺】をめぐって、【崇福寺】を目指します。
途中、福岡の中心地とは思えない、こんな路地も。


タイムスリップしたかのような一画。



途中
【濡れ衣塚】へ
「濡れ衣」という言葉のいわれの一つ。

『筑前続風土記』によると、、、

聖武(しょうむ)天皇の頃(724年~749年)、佐野近世と云う人が、京より筑前の守として赴任したが、 京から連れてきた妻が亡くなった。そのため、筑前国の女性を後妻とした。 後妻が先妻の娘を殺そうとくわだて、海人に金品を与え「姫君が夜な夜な私の元に来て 着物を盗んでゆきます」と嘘を云うようにしくんだ。それを聴いた父親は怒って娘の所に行ったらば、 娘は濡れた衣をかぶって寝ていた。これは後妻が娘が寝入ったときに着せたものである。 父は激怒して娘を殺した。
その翌年、殺された娘が父親の夢に出てきて二首の歌を詠んだ。父親はその娘に罪が無いことをさとり 、後妻を里に返し自分は出家した。
この言い伝えにより、身に覚えのない罪を負う事を「濡れ衣」と云うようになった。
(引用:http://hakataboy.com/etc/NureginuDuka/m.html


【崇福寺】
黒田家の菩提寺です。
黒田官兵衛はじめ、初代長政、四代綱政、六代継高、七代治之、九代斉隆とその一族、また直方藩主などが祭られています。



ランチの会場は櫛田神社の近く。
博多に戻る途中に閻魔大王に会いに(笑

【海元寺】
こちらには、閻魔大王と三途の川で着物を剥ぎ取る 奪衣婆(だつえば)の像があります。
毎年1月と8月16日に行われる「えんま祭り」では、この老婆にコンニャクを供えて、病気のアクをとるという風習があります。(※コンニャクは灰汁(あく)で固めて作る為、 灰汁="悪"を掛けられているそうです)


そして、お待ちかねのランチは、昨年オープンした博多竹彩で。
歩いた後の食事は、また一段と美味。
最高のお食事&おもてなしで、贅沢なひとときを過ごしました。



BY TAKIicon112 &Kogoicon156  


Posted by hishoclub at 22:56Comments(0)例会